歴史/過去の近代日本の中国への侵略

Mon, 04 Apr 2022 17:12:01 JST (758d)
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日本の中国への侵略に関して

柳条湖事件 Edit

参考要約引用https://ja.wikipedia.org/wiki/柳条湖事件

 

事前情報として事前にこの事件は幣原外務大臣に知らされており
問題を起こさないようにという指示が幣原外務大臣から在奉天日本総領事館の林久治郎に対してあり
15日に林久治郎は緊急情報として、関東軍に弾薬の移動などの動きがあることを報告していたようです。

在奉天日本総領事館
中国の事件現場付近にある日本の外国向けの施設
関東軍
南満州鉄道の守備を行う日本の軍隊です。
南満州鉄道
日露戦争後の条約により中国にありながらロシアから日本のものに変わっていました。

また幣原外務大臣は南という陸軍大臣に抗議し、南陸軍大臣は建川陸軍少将に武力行使を差し控えさせるように指示したようです。
そして建川陸軍少将はある程度その内容を知っており実行の日を9月27日と考えていたようです。
そして建川陸軍少将はその首謀者に会い、その後泥酔させられ、その日に事件が起こったそうです。

 

1931年9月18日午後10時20分ごろ
関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐の指示により
南満州鉄道の片側レールの1m以下と枕木2個を爆発を伴って破損させたと言われています。

 

この爆発を察知した、夜間演習中だった川島中隊(川島大尉もこの陰謀を知っていたという説があります)は
この爆発を(陰謀の実行者の)関東軍高級参謀板垣征四郎大佐に報告し、垣征大佐は
川島中隊ふくむ第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して
(問題を起こしていない)張学良の管轄の北大営および奉天城への攻撃命令を下しました。

 
+  張学良

満州を管轄し日本と親しかった張作霖を父に持ち、
その父が日本からアメリカなどに鞍替えし南満州鉄道以外の鉄道敷設を計画したなどから
柳条湖事件と同様に日本軍に爆殺されたことから反日行動を始めていたといわれ、
そのため事件の当日は北京にいたとされています。
(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/張作霖爆殺事件)
また張作霖爆殺事件の主犯とされた人に関して西園寺公望の秘書によると
「若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露する」
といったので、軍法会議は取止めとなったという。とのことで主犯とされた人も日本の上層からの指示であった可能性があります。
(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/河本大作)
すでに南満州鉄道に並ぶ南満洲並行線を建設完了していたようです。ウィキペディアでは赤字になったと書いていますが
収支としてはそこまでに悪化していないようです。地図を見れば向きが並行していますが距離はだいぶ離れているようです。
(参考:https://www.jstage.jst.go.jp/article/rekishitokeizai/55/4/55_KJ00008759892/_pdf

 

午後11時15分、中国側の交渉署日本科長より在奉天日本総領事館に、日本兵が北大営を包囲しているが、
中国側は「無抵抗主義」をとる旨の電話があったようです。
同様の連絡は同様の申し入れは、臧式毅遼寧省政府主席や趙欣伯東三省最高顧問からもあったとされます。

 

これを受け在奉天日本総領事館の林久治郎は(陰謀の実行者の)関東軍高級参謀板垣征四郎大佐に電話で連絡し
中国の姿勢を通知し対話で解決する旨すすめたが、

板垣は、中国側が攻撃を仕掛けてきたものであり、
そうである以上、徹底的に叩くべきだというのが軍の方針であると答えている。しかも板垣は、
諌めた総領事館職員を「統帥権に口を挟むのか」と軍刀を抜いて脅したという。

(電話なのにどうして抜刀で驚くのかいまいち不明ではあるけれど統帥権=天皇という風になります。)
ただし18日中に

9月18日当夜に軍事行動を指令・指揮した板垣征四郎は、事件の知らせを聞いて駆けつけた奉天総領事館の森島領事に対し、発生地を意図的に「柳條溝」と伝え、複数のマスメディアに対してもそのように伝えた(事件名称について)

とあるので森島領事職員である可能性があります。また初期にマスコミに事情を説明したのはこの人である様子です。

 

その後

19日午前1時半ころより(もう一人の陰謀の実行者の)石原の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した。また、それとともに、かねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した。
 

結局

北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主 力が投入され、9月19日午前6時30分には完全に北大営を制圧した。この戦闘による日本側の戦死者は2名、負傷者は22名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約300体と記録されている。
奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された。ここでは、ひそかに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた24センチ榴弾砲(りゅうだんほう)2門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した。午前4時30分までのあいだに奉天城西側および北側が占領された。奉天占領のための戦闘では、日本側の戦死者2名、負傷者25名に対し、中国側の遺棄死体は約500にのぼった。また、この戦闘で中国側の飛行機60機、戦車12台を獲得している。
安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った。しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約6,000の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。日本軍は、66名の戦死者と79名の負傷者を出してようやく中国軍を駆逐した。こうして、関東軍は9月19日中に満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領した。

無抵抗な相手を会話によらず制圧することになりました。また国をまたいでの朝鮮軍の派兵はのちに問題になりました。

 

日本での第一報は
9月19日午前1時7分に中国軍の満鉄線爆破と第二大隊の出動を報じるものであったとされます。
これは、((陰謀の実行者の)関東軍高級参謀板垣征四郎大佐のいる)奉天特務機関の花谷少佐が18日午後11時18分に発信したものだったそうです。

19日午前7時より各機関の首脳が参集し、事後対策を協議した。集まったのは、陸軍省から陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、参謀本部からは参謀次長二宮治重、総務部長梅津美治郎、第一部長代理(第二課長)今村均、第二部長橋本虎之助らであった。ここで小磯軍務局長が開口一番に「関東軍の今回の行動は全部至当のことなり」と発言したが、誰も反対はしなかった。兵力増援の必要性も同時に了解され、今村第二課長が増援計画を立案することとなった。8時30分、朝鮮軍の林銑十郎司令官より飛行隊二中隊を増援させ、さらに混成一旅団の奉天派遣を準備中との連絡、また、10時15分には朝鮮軍の鉄道輸送の開始報告の連絡が入った。国外出兵の場合は、閣議において経費支出を認めたのち奉勅命令の伝宣手続きを必要とするので、参謀本部内には林の措置は妥当でないという意見が大勢を占め、越境派兵を見合わせるよう指示した。

簡単にいうと増員されたということですね。越境派兵を見送るというのは朝鮮軍からの増援は見送ったという意味です。しかし、林銑十郎(林久治郎領事官と間違わないように)を司令官とする朝鮮軍は派兵してしまいました。

 
政府は、19日午前10時に緊急の閣議を召集した。閣議に先だって第2次若槻内閣の首相若槻禮次郎は、南次郎陸軍大臣に関東軍の行動は真に軍の自衛のための行動かと念を押し、南は「もとより然り」と答えた。このとき、もしこれが日本軍の陰謀によるものなら、世界に対する日本の立場は困難になることを指摘した。閣議では南陸相の状況説明ののち幣原外相が外務省筋で得た各種情報の朗読があった。幣原の報告は、この事件が関東軍の謀略であることを言外に示唆しており、閣議は陸軍の説明に懐疑的な雰囲気となって、南陸相は満州への朝鮮軍増援を内閣に提議することができなかった。閣議は、陸軍ふくめ「事変不拡大」の方針を決めて散会した。

つまり政府では陸軍大臣が自衛のものだと言っても幣原外務大臣によってこれが陰謀であるということは知れており、それを拡大させることはしてはならないとしました。

 
19日午後1時30分、若槻首相は参内し、内閣の不拡大方針を昭和天皇に奏上した。このとき若槻は、軍の出動範囲拡大については、必ず閣議を経たうえで裁可していただくよう願う旨付け加えた。陸軍では午後2時から陸軍三長官会議が開かれ、南陸相から、参謀総長の金谷範三と教育総監の武藤信義に閣議決定を伝え、それを南自身合意したことを伝えた。陸軍主流派に属していた金谷は、事件処理について必要以上とならぬよう善処することを本庄関東軍司令官に訓電しており、会議でも「旧態に復する必要あり」との見解を示した。南陸相とは同郷出身でもあり、南に協力的であった。南もまた、本庄司令官に対し事変不拡大方針に留意して行動するよう訓電した。

「軍の出動範囲拡大については、必ず閣議を経たうえで裁可していただくよう願う」とあり天皇が閣議つまり政府や議会を介さずに軍を動かせるかのような記述がありますが、
当時の憲法(大日本帝国憲法https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html)では天皇が軍を動かし4条、11条、12条、政府の賛同を得て行動する第5条とあり、
実際動かせるようになっています。

 
9月22日午前9時半、若槻が参内した際、昭和天皇より、政府の事変不拡大方針は至極妥当と思うので、その趣旨を徹底するよう努力せよとの言葉をかけられている。若槻は宮中で金谷参謀総長に会い、金谷からは独断派兵について閣議の決定を経なければ天皇の裁可を仰げないので閣議の決定を経たかたちで上奏してもらいたい旨を依頼されたが、若槻はこれを断り、総理大臣官邸での閣議に向かった。閣議では、若槻は天皇のことばを南陸相をふくむ全閣僚に伝えたうえで、独断出兵の処理を議題としたが、この時点では出兵に異論を唱える閣僚はなく、いっぽうで賛意の意思表示も全くなかった。結局、若槻内閣は朝鮮軍の出動とそのための戦費支出を事後承認して、正式派兵とした。閣議ののち、若槻首相は参内、天皇に上奏し、南陸相と金谷参謀総長も部隊の満州派遣を上奏して允裁を得て即座に関東軍・朝鮮軍両司令官に奉勅伝宣した。若槻首相は「こういう情勢になってみると自分の力で軍部をおさえることはできない」と語ったといわれる。

天皇が軍を動かせる状態ではありますがこの場合は見る限りは内閣のそれでオッケーみたいな感じだったようです。ただし朝鮮軍の出動は抑えられず察するに統帥権をチラつかせて動かしたように見えます。
つまりですが、天皇の意思であるかどうかに関わらず軍の行動は天皇の意思である可能性があり、当時の憲法上従う方がよいという判断になりやすいのが問題のように思われます。

 

また時間は前後しますが、

翌9月20日、午前10時より開催された二宮参謀次長、杉山陸軍次官、教育総監部の荒木貞夫本部長の首脳会談では、3人は柳条湖事件をもって満蒙問題解決の糸口とする旨を表明、政府倒壊も意に介せずとの強硬方針を確認して、旧態復帰断固阻止を申し合わせた

という風に政府と全く違う方針を打ち立て実際に軍を動かすことができていたようです。この内容は首相に伝えられますがそこに口を出すことは天皇の判断に反することになると見られた様子があります。
ここの旧態復帰とは満州事変前の鉄道防衛の関東軍に戻るという意味であると思われます。

 

また同じような爆発事件を起こす事件の首謀者は一夕会という会に所属しており、これは当時薩摩、長州の出身でなければ出世が望めなかったらしく薩摩長州出身ではない人たちで集まって
その薩摩長州の軍閥を打倒することを目標にしていました。その会の人たちは明らかに良くない謀略や行動をとっているにも関わらず、
最終的には首相になっていたりします。朝鮮軍を派兵した林銑十郎は首相になっており、張作霖爆殺事件の主犯の河本大作は軍法会議にかけられず南満州鉄道の理事になり、
(陰謀の実行者の)関東軍高級参謀板垣征四郎大佐は首相になっており、東條英機も首相になっています。辞退は可能だったり、推薦の中からだったりしますが首相を選ぶのは天皇でした。
(参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/一夕会)

 

中国の対応は

中華民国国民党政府は、9月19日国際連盟に報告し、9月21日正式に提訴して事実関係の調査を求めた。(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/リットン調査団)
 

またすごくおかしな点として事前に察知しある程度の対処をし謀略を暴いた幣原外務大臣が世論からここで嫌われたということです。
また最初の時点で日本の謀略であることがわかっているのに世論の反応が次のようであったようです。

日本国内の各新聞は9月19日付の号外で事件勃発を報じたが、ラジオも19日午前6時半、「臨時ニュース」としてこれを伝えた。
事件の翌々日にあたる1931年9月20日付『神戸新聞』には、事件に対する市民の声が掲載されている。それによれば、
車夫 「一体から幣原があかんよって支那人になめられるんや。向ふから仕掛けたんやよって満州全体、いや支那全体占領したらええ。そしたら日本も金持になって俺らも助かるんや」
交通巡査 「大いに膺懲すべしだ」
市電車掌 「やりゃいいんです。やっつけりゃいいんです。大体支那の兵隊といへば卑怯なやり方ですからね。…うんと仇討、賛成ですね」
料理屋女房 「これで景気がよくなりますと何よりです」
商店主 「とも角、いままで培って来た満州のことです。捨てて堪りますか。私はこれでも日露戦争に出たんですから」
というものであった。

「向ふから仕掛けたんや(向こうから仕掛けたんだ)」という意見や
「大体支那の兵隊といへば卑怯なやり方ですからね。…うんと仇討(だいたい中国の兵隊は卑怯なやり方ですからね。たくさんあだ討ちしよう)」
というのは明らかに日本国民に日本の自演であることを伝えず、中国が満洲鉄道を壊した説で流していることが察せられます。
併せて(いつの法律かこのウィキでは現在不明ですが)戦時中は情報統制がかけられ嘘の状態から抜け出ないようにされていることも容易に察することができます。
これにより国民が戦争を望んでいるなどとし拡大させて行ったようです。内閣はその際おまけのようなもののように見えますね。

 

また編集していて思うことですが、
1つ目は嘘をついて得た物の上に色々なものを積み上げても崩れてしまうこと
2つ目は統帥権だぞというと本当に天皇の指示なのか末端のやっていることなのか、
内閣であろうと、領事であろうと、わからず従ってしまう問題があり、
それがいまだにきちっと把握できないものであることも問題だと思います。
3つ目は過去のドイツや日本を見れば国民に嘘の情報を見せたり、誤解させたりして、騙して扇動して反対者を潰しても
第3国から見ると、今日のロシアがウクライナが虐殺していると言いながら、ウクライナを一方的に攻めるように違和感が強く見えること。
4つ目はもし本当に軍部が暴走したらそれは1の問題を避けるために追認するべきではなく罰するべきなのだろう。ということですね。

 

また間違いの発見や懸念がある方は以下にコメントしていただければ幸いです。

 

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