国内問題/天国や地獄が気になって宗教やめられない人へ のバックアップ差分(No.5)


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原始仏典 マッジマニカーヤp430-431の個人的な要約によれば
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世界は有限である、世界は無限である、霊魂と体は同一である、霊魂と体は同一ではない、
人格完成者である如来はその死後も存在する、人格完成者である如来はその死後は存在しないということは
私が説いたものであろうか。私は苦を滅する方法を説いたのである。
私が説いたものを私が説いたものとし、私が説かなかったものを私が説かなかったものと受けよ。
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とあります。
ニカーヤは如是我聞 釈迦如来はこう言ったと聞いている。というものを集めたもので原始的な仏典です。
多くは釈迦如来の付き人アナンの聞いたものと言われています。

#region(要約ではない内容)
#region(ネットで調べた前提と資料の統合)
マールンキャの子は世界は有限である、世界は無限である、霊魂と体は同一である、霊魂と体は同一ではない、
人格完成者である如来はその死後も存在する、人格完成者である如来はその死後は存在しない
などの事が気になりました。
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釈迦如来に質問して答える事ができないなら清浄行(仏教の推奨する行い)を中止しやめようと思いました。
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そこで釈迦如来は「わかりません。しかしあなたがそれを知ろうとするならば先に命が尽きるでしょう」という悟りのためのお話をしました。
 ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしましょう。彼の親友、親族などは彼のために医者を迎えるでしょう。
 しかし矢に当たったその当人が、
 「わたしを射た者が王族であるか、バラモン(インドの宗教指導の職)であるか、庶民であるか、
 奴隷であるかを知らない間はこの矢を抜き取ってはならない。
 またその者の姓や名前を知るまではこの矢を抜き取ってはならない。
 またその人の身長は高かったか普通だったか低かったか、肌の色は何色であったか、弓がどのような弓か、
 弦はどのようなものかなどを知らない間はこの矢を抜き取ってはならない。」といったらどうなるでしょう。
 (要約:原始仏典 中村元 P59-60、MN.I,pp.429-430.)
#endregion
「世界は常往なものであるという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「世界は常往ならざるものであるという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。
世界は常往なものであるという見解があっても、また世界は常往ならざるものであるという見解があっても、
しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、悲しみ、苦痛、悩み、悶えがある。
われはいま目のあたり、これらの消滅を解くのである。
われはいま目のあたり、これらの消滅を説くのである。
(同様に「世界は有限であるという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「世界は無限であるという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「霊魂と身体とは同一であるという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「霊魂と身体とは異なったものであるという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「人格完成者はその死後も存在するという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「人格完成者はその死後も存在しないという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「。。。(。。。は何か書かれていないが天国や地獄でもいいと思われます)が存在するという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「。。。が存在しないという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「。。。が存在しかつ存在しないという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。また
「。。。は存在するのでもなく、存在しないのでもないという見解があるとき、清浄行に往するであろう」ということはない。
このような見解があってもしかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、悲しみ、苦痛、悩み、悶えがある。
われはいま目のあたり、これらの消滅を解くのである。)
われはいま目のあたり、これらの消滅を説くのである。)
 それ故にここにわたくしが記説しなかったことを記説されなかったこととし受持せよ。
またわたくしの記説したことを記説されたこととして受持せよ。。。
「世間は常往なものである」などということはわたくしの記説しなかったことである。
なぜにこのことをわたくしは記説しなかったのか?
何となればこのことは目的と相応せず、清浄行の基礎とならず、厭離・離欲・止滅・平安・知通・正覚・ニルヴァーナのためにならない故である。
 しからばわたくしは何を記説したのであるか?
「これは苦しみである」「これは苦しみの起こる原因である」「これは苦しみの止滅に導く道である」
ということをわたくしは記説したのである。
何故にわたくしはこのことを記説したのであるかマールンキャの子よ、
これは目的と相応し、清浄行の基礎となり、厭離・離欲・止滅・平安・知通・正覚・安らぎのためになるものである。
それ故にわたくしはこのことを記説したのである。
(MN.I,pp.430-431.cf.DN.9,vol.I,p.187.)
(出典:原始仏典 中村元 P59-60)
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これを見た方は今度は清浄行が知りたくてしょうがなくなる可能性があります。
清浄行が何であるかを書いておきます。
清浄行はbrahmacariyaṁ英語でBrahma-faring日本語で梵行と言います。
当時のインドは人生を梵行期、家住期、林住期、遊行期に分類していたようです。
梵行期は学生として遊行してたりする師匠に習って学問を行う時期です。中村元様の翻訳の清浄行に往するというのは
(釈迦如来の元で)勉強するという意味になるでしょう。学校で勉強するのは良いですが学校だけでは世界の見方が偏ります。
インターネットや図書館には多くの書物があります。物事が事実であるか検証しその上に知識を積み上げなくてはいけないと思います。
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当時のインドには人がなくなったらその人の行いによって良い家や悪い家に生まれ変わるという思想があります。
釈迦如来はそれを説きませんでした。わからないことはそのままで勝手な解釈をつけないのはより事実に近いでしょう。
なんでも仏教が正しいとは思いませんが、このことはマールンキャの子のように困っている人に答えをくれるでしょう。

#endregion

現在の仏教ではとかく天国や地獄などを出し、こうすれば天国に行きこうすれば地獄に行くなどと言っているかもしれませんが
仏教の始祖である釈迦如来がそのようなことは言っておらず、
それを考えること自体が苦の始まりであり教えではないと言っています。
亡くなった人の魂が生きているや生きていないなどは釈迦如来の説にはなくそれが釈迦如来の説ではないと釈迦如来がみずから言っているのを忘れないでください。
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一つ言えるのは人格完成者である釈迦如来の説は今の世の中で苦悩にある人の苦を滅するために蘇るということです。