(だいたい完成)/日本国憲法を作るに至る経緯 のバックアップ差分(No.2)


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まず2冊の本からの情報を参照しています

1、マッカーサーの政治改革 ジャスティン ウィリアムズ

2、平和憲法の水源

用語

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部}General Headquarters

SCAP(the Supreme Commander for the Allied Powers)

SWNCC 国務・陸軍・海軍調整委員会 State-War-Navy Coordinating Committee アメリカの機関

ジャスティンウィリアムズさんはGHQ/SCAPの職員だったそうです。};};
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まず1の本から読み取れるもの
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1946年1月11日

指令SWNCC288がマッカーサー元帥に下る。

SWNCCは国務・陸軍・海軍調整委員会State-War-Navy Coordinating Committee
SWNCCはつまりアメリカからの指令ということです。
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内容は日本の統治機構の変革を促し指導するというもので

そのうちの7条に憲法改正もあるようです。

1月24日から10日ほど前
 ホイットニーとケーディスが一月四日に発せられた公職追放指令のいくつかのカテゴリーについて説明するために

幣原首相を訪ねた。首相官邸へ車で向かう途中、ケーディスは天皇の神格性を否定した元旦の詔書のことを考えつつ、

またロー・スクール時代に好感を持って支持した一九二八年のケロッグ=ブリアン不戦条約からの示唆もあって、

日本の指導者の詔書による戦争放棄を考慮する気はないだろうか、と声高に語った。

ホイットニーは無言だった。
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この時はマッカーサー元帥はGHQには憲法改正の権限はなく権限はFEAC(極東諮問委員会)にあるとしており

1946年1月17日のFEACの質問でケーディスという人が答え

GHQは憲法の研究をしておらず、日本国内の人が行っていると回答したといいます。

(実際に日本国内で憲法の検討が起きてはいた)

FEACフランスのフランシス・ラコステという人は憲法改正が必要であると言ったそうです。

1946年1月30日のFEAC代表団との会議でマッカーサー元帥は

モスクワ協定により憲法改正は自分の手から離れたと発言したと書かれています。

モスクワ協定ではGHQの上にFEC(極東委員会)を設置するものでした。
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